書評 文藝春秋 掲載記事
文藝春秋BOOK倶楽部特別篇 戦後の名著「わたしのベスト3」

歴史学者としての原点

『死霊』『蠣崎波響の生涯』『反古典の政治経済学』

評者山内 昌之 (明治大学特任教授) プロフィール

やまうち まさゆき/1947年生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科教授。87年『スルタンガリエフの夢』でサントリー学芸賞、91年『ラディカルヒストリー』で吉野作造賞、02年司馬遼太郎賞受賞、06年紫綬褒章受章。『リーダーシップ』など著作多数。

『死霊』埴谷雄高/講談社文芸文庫/(全3巻)
『蠣崎波響の生涯』中村真一郎/新潮社/絶版
『反古典の政治経済学』村上泰亮/中央公論社/(上下)/絶版

 人生の方向を模索していた学生時分に邂逅した書物。埴谷雄高がドストエフスキーに影響を受けたように、私は『死霊』に登場する人物たちの議論から刺激を受けた。共産主義思想を奉じる地下活動家の論争こそ、『死霊』の中心軸に他ならない。「宇宙」や「無限大」に始まり、「存在」と「虚體」とは何か、「自同律の不快」といった青年期に悩む人生の命題に正面から挑んだ作品の迫力を忘れられない。歴史学の道に進んだ私が『スルタンガリエフの夢』や『中東国際関係史研究』でムスリム共産主義者スルタンガリエフやトルコ人軍人政治家カラベキルの内面分析に取り組んだのも、どこかで『死霊』の影響があったからかもしれない。

『蠣崎波響の生涯』は、松前藩家老というよりも、漢詩人にして画家として著名な蠣崎廣年の詩作や画業をまとめたばかりでない。江戸時代末期の北辺で対露関係の最先端に立つ松前藩の複雑な事情、家中の仕置きに苦悩する波響の生き様を伝記研究としてまとめる技は、歴史学の視角から見ても間然するところがない。陸奥国梁川に転封された藩の蝦夷地本領復帰には工作資金が必要だった。その捻出のために画業に励む波響を見ると、芸術の才に恵まれた政治家の悲劇をつい思ってしまう。いまフランスにある夷酋列像図の数々や、日本に残された釈迦涅槃図と唐美人図など芸域の広い波響の絵をカラーで見ることで、私はどれほど心が癒されたことだろうか。

『反古典の政治経済学』は、政府の産業保護政策を独特な開発主義論から分析した作品だが、経済学のみならず社会科学全般にわたる知の総合でもある。助教授当時の私の仕事を利用してくれたのには驚いた。氏の『新中間大衆の時代』とともに、歴史学者は何をなすべきかと私に自問させた作品である。氏の学問のいずれかに連なると自負をしていた私にとって、氏の東大駒場辞職と早すぎた死は、まことに惜しまれてならない。自分の研究成果を本当に評価してもらいたい学者の一人であった。


この特集の他の記事は「文藝春秋」2015年新年特大号でご覧ください。

この記事の掲載号

2015年新年特大号
2015年新年特大号
完全保存版 戦後70年記念特大号
2014年12月10日 発売 / 特別定価930円(税込)
関連ワード

埴谷 雄高中村 真一郎村上 泰亮山内 昌之

読書の新着記事 一覧を見る RSS

登録はこちら

文藝春秋について 毎月10日発売 定価880円(税込)

※発売日・価格は変更の場合があります。