鼎談書評 文藝春秋 掲載記事

一人息子を喪った夫婦は、ヒトラーに無謀な抵抗を始める――

『ベルリンに一人死す』 (ハンス・ファラダ 著/赤根洋子 訳)

みすず書房 4500円+税

池内 この本の舞台は、ヒトラー体制の最盛期であった1940年のベルリンです。家具工場の職工長オットー・クヴァンゲルとその妻アンナという一小市民が、息子の戦死の報に接したことで、反ヒトラーの抵抗運動を始めます。ただ、運動といっても、反戦、反ナチス、サボタージュを呼びかけるメッセージを葉書に書いて、ベルリン中の公共の建物に置き、市民に抵抗運動を呼びかけるという素朴な方法でした。残念なことに葉書はほとんど市民の目に触れることなく当局に届けられ、2年後、夫婦は逮捕、名ばかりの裁判を経て、翌年ギロチンで処刑されます。この現実に起きた「ハンペル事件」をもとに、著者が見聞きした他のエピソードを入れて描かれ、ドキュメンタリーとフィクションが上手に融合された作品です。

 この本でとても重要な一つは、著者のペンネームです。「ファラダ」というのはグリム童話『がちょう番の娘』に登場する馬の名前です。この馬は、お輿入れのときにお姫様を乗せて、その後、お姫様が侍女に騙されてがちょう番にされる一部始終をじっと見ています。そして殺されて首だけが城門に晒されながらも、「王女様」と呼びかけたことで、がちょう番がお姫様であることを王子は知る。この本が書かれたのは第二次大戦が終結して間もない1946年。著者はこの戦争の間にじっと見てきたものを、この本にこめた。そういう意味のペンネームでもあります。

片山 「リアリズム小説の傑作」という謳い文句のとおりで、登場人物と空間の設定が秀逸です。クヴァンゲル夫婦の住む小さなアパートには様々な人が住んでいます。古参のナチ党員とヒトラーユーゲントであるペルジッケ親子、地下に住む密告者バルクハウゼン、最上階にはユダヤ人の老婦人ローゼンタール、さらに外から息子の許婚者トルーデルや夫婦を捜査する秘密警察ゲシュタポなども絡み合い、グランドホテル形式で物語が進行します。このアパートがドイツ全体の縮図になっていて、第三帝国時代の市民生活をよく描いています。

なぜ夫婦は抵抗できたのか

池内 市民の生活がいかに互いに監視し合っていたかは、ちょっとしたやりとりでよくわかります。フランスがドイツに降伏したことを受けて、「ドイツは世界で一番豊かな国になります。そのためなら20万、30万の犠牲者くらい安いもんです。みんな、金持ちになるんですからね!」と言う相手に対して、クヴァンゲルは「そんなもの、一人の犠牲者を出すだけの価値もない」と反論する。すると、「あんたは今、総統をもろに批判したんだぞ。もし俺がそういう奴で、これを密告したら……」とクヴァンゲルを強請(ゆす)る。

片山 しかし、クヴァンゲルは屈しないばかりか、国や総統よりも、「息子のオットーが戦死した。女房は嘆き悲しんでいる。俺はそれが悲しい」と言い切る。彼が抵抗にいたる論理は、国や民族を救うというようなイデオロギーではなく、ただ愛する息子を奪われたという「私」の経験が全てなんです。「私の論理」の強さを示している点で、いまの時代でも共感できるでしょう。

【次ページ】イデオロギーの呪縛

この記事の掲載号

2015年2月新春号
2015年2月新春号
読者投稿 素晴らしき高度成長時代
2015年1月10日 発売 / 定価880円(税込)
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