文藝春秋SPECIAL
戦国大名 究極のサバイバル戦略

【今川義元】桶狭間に散った「東海王国」の野望

信長に討ち取られはしたが領国経営の手腕は卓越していた

小和田 哲男 (静岡大学名誉教授) プロフィール

おわだ てつお/静岡大学名誉教授
1944年静岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専攻は日本中世史。『今川義元』(ミネルヴァ書房)、『戦国武将の実力』(中公新書)など著書多数。2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の時代考証も手がける。

Illustration:Takashi Nemoto

 今川義元はいまだに戦国武将としての評価は低い。それは、二万五〇〇〇という大軍を擁しながら、わずか二〇〇〇の織田信長に敗れ、首を取られてしまった桶狭間の戦いのイメージが強烈だからである。本当は、足利将軍家から、「外出のときは輿(こし)に乗ってよい」との特別許可を与えられ、輿(こし)で出陣したにもかかわらず、「馬にも乗れなかった」などと揶揄(やゆ)され、戦国武将失格といった烙印を押されてしまっている。

 桶狭間の戦いで信長に討ち取られたことはたしかであるが、これは、信長の戦略・戦術の方を評価すべきである。義元の側に油断があったことは否めないが、この敗北をもって、義元の戦国大名としての業績や全人格まで打ち消してしまうのはまちがいである。武将としては失敗したが、大名としての義元は、当時の戦国大名の中では文句なくトップレベルだった。その証拠に、有名な武田信玄と上杉謙信の川中島の戦い第二回戦は、義元が間に入って戦いをやめさせているのである。義元は、戦国を代表する武田信玄・上杉謙信とも肩を並べる存在だった。

今川義元関連年表

1519 今川氏親の五男として生まれる。氏親の補佐役から戦国大名に成長した北条早雲が没す。
1526 氏親が「今川仮名目録」を制定。
1536 花蔵の乱。家督を継ぐ。
1537 武田信虎女(信玄の姉)を妻に迎える=甲駿同盟の成立。北条氏綱、駿河に侵攻=河東一乱。
1549 三河全域を制覇。
1552 織田信秀没。信長が家督を継ぐ。
1553 「仮名目録追加」二一ヵ条を制定。
1554 嫡男・氏真が北条氏康女を妻に迎える=甲相駿三国同盟の完成。
1555 第二次川中島の戦いの仲裁に入り、武田・上杉に講和が成立。
1557 氏真に家督を譲る。
1560 桶狭間で討ち取られる(42)。

軍師・雪斎を得る

 義元は永正一六年(一五一九)、今川氏親の五男として生まれている。幼くして禅寺に入れられており、家督は長兄氏輝がついだ。ところが、その氏輝が天文五年(一五三六)、二十四歳の若さで死んでしまった。子どもがいなかったため、弟たちの中から家督をつがせることになり、氏親三男の玄広恵探(げんこうえたん)と五男の栴岳承芳(せんがくしょうほう)の争いとなった。いわゆる花蔵(はなぐら)の乱である。

 この戦いに勝利した栴岳承芳が還俗し、将軍足利義晴から「義」の一字を与えられ、義元と名乗った。義元は禅寺での修行時代に師であった太原崇孚(たいげんそうふ)、すなわち雪斎(せっさい)を亡き兄氏輝の菩提寺として建立した臨済寺の住持に招くとともに、軍師としている。執権などといわれることもある。

 この義元・雪斎コンビにより、武田信玄・北条氏康との間に「甲相駿三国同盟」を結び、後方の安全を確保した上で、父氏親や兄氏輝のときにはほとんど踏み出せないでいた三河侵攻に本格的に乗り出し、西三河まで領国を広げることに成功している。新しく領国に組みこんだ三河では検地も行っている。

 注目されるのは、父氏親が制定した「今川仮名目録」に追加する形で「仮名目録追加」を制定していることである。氏親の三三ヵ条に、義元が二一ヵ条を追加した形となるが、単なる追加ではなく、時代の変化に対応した条文の修正という側面もあり、直面する領国内の諸問題に対応できる法整備を進めていた。

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