文藝春秋SPECIAL
激論! 退位は是か非か

それでも生前退位に反対する

法制化はそう簡単ではない。「生前退位」は、皇室を危機にさらす「パンドラの箱」だ

八木 秀次 (麗澤大学教授) プロフィール

やぎ ひでつぐ/1962年広島県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程退学。高崎経済大学を経て、2014年より現職。著書に『明治憲法の思想』(PHP新書)、『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など。

明治宮殿正殿での憲法発布式に臨んだ後、青山練兵場での観兵式に向かう明治天皇と皇后

「我帝室は日本人民の精神を収攬(しゅうらん)するの中心なり」――。こう、長編評論『帝室論』(1882年、『福沢諭吉選集第6巻』岩波書店所収)で述べたのは福澤諭吉だった。日本人は普段は強く意識しないが、皇室を頼りにして生きている。自らの「精神を収攬するの中心」がぐらつくと途端に不安になる。8月8日、天皇陛下がご生前での退位のご意向を強く滲(にじ)まされるビデオメッセージを発表されたが、私にはそれを拝した国民の反応はそのように思えた。街では足を止めてビルのスクリーンに映し出された陛下のお言葉に耳を傾ける若者の姿が多く見られた。彼らは一様に不安そうに見えた。その後の世論調査で8割、9割の人たちが陛下のご生前での退位に好意的な姿勢を示したのも不安な気持ちの反映と思える。

『帝室論』は今上天皇が皇太子の時代に、東宮御教育常務参与に就任した慶應義塾元塾長の小泉信三とともに、戦後の新しい時代の帝王学を学ぶべく輪読した数冊の書物の内の一つであった。福澤は『帝室論』を書くに当たって、イギリスのジャーナリスト、ウォルター・バジョットの『イギリス憲政論』(“The English Constitution”、1867年)を下敷きにした。バジョットのこの本はイギリスの立憲君主制の在り方を書いたものだが、GHQ民政局が現行憲法の天皇条項の原案を起草するに当たっての種本でもある。天皇を「国民統合の象徴」とする憲法第1条の規定はバジョットが使った文言と理論そのままであった。福澤がいう「日本人民の精神を収攬するの中心」とは、バジョットの「国民統合の象徴」を福澤流に表現したものだった。陛下は、天皇は直接政務に関わらず、政治的な対立を超越するがゆえに「国民統合の象徴」たり得るという象徴天皇制度の在り方を『帝室論』を通じて学ばれた。その『帝室論』がいう、日本国民の精神を収攬する「中心」が今、揺らぎ不安定になりつつある。

 天皇陛下が退位・譲位へのご意向を示されたことは、天皇の地位が揺らいでいることを意味している。陛下のご意向がそのまま実現できるかは明らかでなく、多くの困難を伴う。皇太子殿下が次に皇位を継承されることは明確であるものの、それまでの間、天皇の地位は不確実で不安定なものになる。そればかりではない。ご生前での退位を制度的に、あるいは現在の天皇陛下に限ってであれ、認めてしまえば、皇位自体が不安定になる。

【次ページ】退位・譲位が認められない理由

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