文藝春秋SPECIAL
激論! 退位は是か非か

皇室典範どこまで変えるべきか

生前退位を法制化するのであれば、一代限りの特別法ではなく、皇室典範を改正するのが望ましい

木村 草太 (首都大学東京教授) プロフィール

きむら そうた/1980年神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学大学院法学政治学研究科助手を経て、2006年、首都大学東京准教授に就任。2016年より現職。専門は憲法学。著書に『憲法の急所』(羽鳥書店)、『憲法という希望』(講談社現代新書)など。

 2016年8月8日、天皇陛下の「お言葉」として、「高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか」について、「個人として」「これまでに考えて来たこと」が伝えられた。「現行の皇室制度に具体的に触れることは控え」られたが、天皇の生前退位を制度化する必要を示唆するものだった。その後、政府は、有識者会議を設け、生前退位について検討を始めた。現段階(2016年10月)の報道では、今上天皇一代限りの特別法を軸に検討が進められる見込みだという。

 果たして、そのことに問題はないのだろうか。本稿では、皇室典範の制定過程を整理した上で、生前退位それ自体の是非、一代限りの特別法という手法の可否、生前退位に伴う皇室典範の課題について、検討する。

生前退位が認められなかった理由

 江戸時代までは、天皇の生前退位はしばしば行われていたが、皇位継承に関する明確なルールはなかった。1889年、大日本帝国憲法と同時に制定された「皇室典範」(以下、明治皇室典範と呼ぶ)で、「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」とされ(第十条)、生前退位を認めないとのルールが法定された。その背景には如何なる議論があったのだろうか。

 1887年3月20日、伊藤博文や井上毅(こわし)といった明治政府の幹部が、高輪の伊藤別邸に集まり、明治皇室典範の内容を検討した。この時のたたき台では、「天皇ハ終身大位ニ当ル。但シ精神又ハ身体ニ於テ不治ノ重患アル時ハ元老院ニ諮詢シ皇位継承ノ順序ニ依リ其位ヲ譲ルコトヲ得」と、生前退位を認める内容だった。井上毅は、天皇には健康や判断力など一定の資質が必要だから、病気の場合などに備えて、生前退位の可能性を残す必要があると主張した。

 しかし、伊藤は、重患ある場合には摂政を置けば足りると主張し、「本條不用ニ付削除スヘシ」と切り捨てた(小林宏・島善高編著『日本立法資料全集本巻16 明治皇室典範〔明治22年〕(上)』信山社・資料45、奥平康弘『「萬世一系」の研究』第II部第2章参照)。その論拠は、高輪での会議の記録によると、天皇が「随意ニ其位ヲ遜(ユズ)レ玉フ」のは「浮屠氏ノ流弊」(仏教の悪影響)にすぎないから、という(前掲『日本立法資料全集本巻』)。また、公式解説書である伊藤名義『帝国憲法皇室典範義解』は、「権臣ノ脅迫」による「南北朝ノ乱」などの政治的混乱の歴史を指摘した上で、「神武天皇ヨリ舒明天皇ニ至ル迄三十四世嘗テ譲位ノ事」はなく、崩御後の即位が「上代ノ恒典」だとしている。

 ただ、こうした論拠はいささか不自然だ。天皇の退位は出家のためとは限らない。また、明治時代から見ても、神武天皇崩御や南北朝の対立ははるか昔のことだ。

 実質的な理由としては、伊藤は次のように考えていたようだ。天皇を「操り人形」に喩(たと)えたという記録もあるように(長尾龍一『思想としての日本憲法史』206頁)、伊藤は、天皇は政府の決定を形式的に正統化するだけの「お飾り」であるべきと考えていた。資質があろうとなかろうと、天皇を退位させる必要はない。生前退位の制度は、強制退位や院政の危険を招くだけなので不要・有害だ、と。

 もっとも、天皇はお飾りだからと説明するのは、あまりに不遜なため、公式文書に残せなかったのだろう。

【次ページ】戦後、皇室典範は「法律」になった

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