鼎談書評 文藝春秋 掲載記事

夫婦で作り上げた“書き・書かれる”人生

『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』 (梯久美子 著)

新潮社 3000円+税

久田 島尾敏雄・ミホ夫妻といえば、敏雄の著書『死の棘』で有名です。ある日、敏雄は日記を開いたまま机の上に置いて外出してしまう。偶然部屋に入ったミホは、愛人について書かれた部分を目にしてショックで気がふれる。きっかけは、日記にあった「17文字」の記述です。以後、敏雄はミホに“絶対服従”を誓い隷属的な人生を過ごします。共に精神科の閉鎖病棟で暮らし、退院してからも一晩中ミホに罵倒されるような壮絶な日々を綴った『死の棘』はベストセラーとなります。私も20代で読んだときは、血がにじみ出るような生々しい夫婦のやりとりに衝撃を受けました。

 著者の梯(かけはし)久美子さんは、生前、ミホに何度か長いインタビューを行なっています。本人に断られて一時は評伝執筆をあきらめたものの、2007年にミホが亡くなった後、息子の伸三さんの許可も得て膨大な遺品にあたり、関連資料も丹念に読み解いて改めて敏雄とミホの人生を追い直して行く。

山内 2人の原稿だけでなく敏雄の草稿やメモなど、ミホは何もかも保管している。「至上命令 敏雄は事の如何を問わずミホの命令に一生涯服従す 如何なることがあつても厳守する但し病気のことに関しては医師に相談する」という血判つきの誓約書だけでもすごいですが、敏雄が血をぬぐったガーゼまで残されているというのだから尋常ではない(笑)。取材者にとっては宝の山でしょうが、業のような緊張感に圧倒されたでしょうね。

久田 そのおかげで、敏雄はミホに見つかるようにわざと日記を開いて出かけたうえ、ミホも以前から浮気を知っていたという驚くべき仮説が呈示されます。『死の棘』の見方が180度変わる。

片山 ええ、本当に驚きました。

夫婦共犯で生まれた代表作

久田 ミホは亡くなる前年の取材でも、日記を見て自分は気が狂ったと語っています。夫婦で作り上げた筋書きに沿って人生を全うしたといってもいいのかもしれませんね。

片山 まさに夫婦共犯。特攻艇部隊の隊長として赴任した奄美の加計呂麻(かけろま)島でミホと出会った敏雄は、戦後、東京で専業作家になり書く苦しみに直面します。「自分は小説を書く必然的な立場が無い」「もっと犠牲が必要だ」との何やら予感めいた言葉は、ミホに浮気を知られる10カ月も前に書かれている。敏雄には特攻隊を超えるほどの新たな経験が書くためにどうしても必要だった。

 一方のミホも、日記を読む前に「私立探てい」に頼んで浮気相手を突き止め、写真も入手し、愛人の家の床下に潜みさえする。そのくだりを綴った「『死の棘』の妻の場合」という草稿がミホさんの遺品にあるそうで。

久田 残念ながら、出版はされていません。

山内 そもそも『死の棘』が美しい夫婦愛の物語として定着したのは、2人の関係が日本の神話的世界における理想的な男女の愛の葛藤を思わせると評した文庫版の解説が大きい。私も若い頃に読みましたが、どうもできすぎという感はあった。今回の本を読んで、やっぱりそうか! と腑に落ちましたよ。

久田 不幸なのは、『死の棘』で世間の注目を集め、“悪女”と後ろ指をさされた敏雄の愛人です。敏雄と親しかった吉本隆明は、『死の棘』で描かれる愛は、夫婦と愛人による三角関係ではなく、夫婦だけに焦点が当たる二角関係だと言っていましたが、まさにその通り。

山内 埴谷雄高(はにやゆたか)も1987年に書いた評論のなかで、ミホと敏雄は煉獄を経て天国へ到達するのに比べ、衰滅していくこの女性こそ『死の棘』のなかの「最大不幸者」と書いている。さすがに慧眼です。

久田 梯さんは愛人の素性についてもきちんと追いかけ、友人に話も聞いている。「彼女はあの小説の犠牲者だと思っています」の言葉は重い。ご本人も発表された小説を読んで、「あんな書き方はひどすぎる」と動揺していたそうですね。

片山 島尾との関係は文学仲間には知られていたでしょうから、追われるように東京を離れ、どうやら不幸な最期を遂げる。敏雄とミホに殺されたとも言える。島尾文学は生贄の上に成り立ったわけです。

【次ページ】加計呂麻島でハイヒール

この記事の掲載号

2017年2月号
2017年2月号
大型企画 大女優が語る昭和の映画
2017年1月10日 発売 / 定価880円(税込)
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