今月買った本 文藝春秋 掲載記事

過去は現在である

『蝶々にエノケン』 『ブエノスアイレス食堂』 『梨の花咲く町で』 ほか

平松 洋子 プロフィール

ひらまつ ようこ/1958年生まれ。エッセイスト。2006年、『買えない味』でBunkamuraドゥ マゴ文学賞を受賞。著書に『おとなの味』『サンドウィッチは銀座で』『野蛮な読書』などがある。「週刊文春」で「この味」を連載中。

「キミのからだには、そんな文化も入っとるんか!」と驚愕されて中山千夏が筆を取ったのが『蝶々にエノケン』。一読、いやあ、ほんとうに驚くばかりだ。「そんな文化」とはエノケンとの共演を指すわけだが、“天才子役テコ”と錚々たる時代の寵児たちとの交流の多彩さ、ディープさにあらためて唸る。長谷川一夫、美空ひばり、古川緑波、山田五十鈴、三木のり平、三益愛子、乙羽信子……並外れた記憶力と洞察力を駆使して、会話の妙、ふとした表情、余人には知り得ないその場の空気を描きだす。各人の本質をぐさりと抉る活写がみごとだ。血の通った芸人列伝は、貴重な昭和文化史を生みだすことになった。

 この小説のおもしろさはなんだ! 『ブエノスアイレス食堂』の読後の興奮がおさまらない。物語の始まりは食堂のかたすみで発見された母親の骸骨と、そばに横たわる赤ん坊。暗黒小説の名にふさわしく、おぞましい猟奇事件に絡むのはイタリア人の移民史、アルゼンチン軍事政権下の悲劇、悦楽的な料理の数々。それらすべてを嚥下してきた「ブエノスアイレス食堂」こそ真の怪物なのだと思い至ったとき、いいようのない恐怖に襲われて、まんまと作家の企みにはまる。

 幽界と顕界を行き来する勝見洋一の処女小説『(はなむけ)』にも濃厚な味がある。とりわけ中国の食文化に造詣が深い著者のこと、舞台は半世紀にわたる北京の酒楼や娼楼。亡き息子の許嫁を媒介にして、生者と死者がエロティックに錯綜するさまを描く。装丁と活版印刷が小説世界をより鮮明に出現させる。

 歳月の重みが反響しあう忘れがたい短編集が、森内俊雄による八年ぶりの『梨の花咲く町で』。全七編、人生の深みに添いながら響くモーツアルトの旋律、銅版画、リルケ詩集……精緻な小説世界のなかに、老境を生きるたしかな記憶の存在がある。「過去というものは、思いだされるかぎりにおいて、それは現在である」。まことに。梨の花を幻視する表題作も、たったいま芳しい香りまで漂ってくるようだ。

 過去と現在を行き来する不思議な時間を運んでくるのが、エッセイ集『木挽町月光夜咄』。あるとき著者は、いまはもうない銀座界隈の木挽町で、曾祖父がちいさな鮨屋を営んでいたことを知る。それをきっかけに自分の系譜をさかのぼりながら、日常がそこに溶けこんでゆく。曾祖父「音吉」の横顔や後ろ姿がそこここに顔をのぞかせる気配に玩味あり。

クートラスの思い出』には、ひとりの孤独な画家が生きている。六千枚に及ぶ縦12cm・横6cmのカルト作品は物語性と想像力にあふれ、唯一無二。その独創的な世界を、最後の恋人だった著者がみずみずしい筆致で書き下ろしたクートラス・ファン必読の一冊だ。

この記事の掲載号

2012年3月特別号
2012年3月特別号
第146回芥川賞発表
2012年2月10日 発売 / 特別定価890円(税込)
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