書評 文藝春秋 掲載記事

娘たちの不自由、そして小説の爆発力

『母の遺産──新聞小説』 (水村美苗 著)

評者田口 久美子 プロフィール

たぐち くみこ/キディランド、西武百貨店池袋店書籍部(リブロの前身)を経て、1997年よりジュンク堂池袋店副店長を務め、文芸書を担当する。著書に『書店風雲録』『書店繁盛期』がある。

中央公論新社 1890円(税込)

 世に「母との確執」を抱える娘のなんと多いことか。私は「職場の娘たち」から悩み話を聞く機会が多いのだが、彼らの深い傷心にいつも心を痛める。母親をひどく恨んでいる娘から共依存と思われる娘まで、幅は広いが根はひとつ。しかもどの母親もスーパーマザーとは思えない。娘たちがスーパーではないのと同様に。

『母の遺産』はそのスーパーマザーを持った娘の「母からの脱出記」である。主な登場人物は、主人公・美津紀、不定愁訴ただ中の50歳代、主婦業の合間に大学の非常勤講師と翻訳業。夫・哲夫はちょっと名の知られた大学教授。姉・奈津紀は上流階級に嫁(か)した主婦。そして自らを恃んで「階級」を這い上がり、娘たちを繰り続けた奔放な母・紀子である。実はもうひとつ、著者が周到に埋め込んでいる重要な登場者がいて、物語を複雑に楽しませてくれるのだが、それはあとで。

 話は母・紀子の通夜が終わった夜、姉妹の電話から始まる。わがままな母にさんざん手こずった末の「待たれた死」だ、遺産の話をしながらも興奮はさめない。美津紀は最近とみに「私は不幸だ」という思いに捕らわれている。夫が不倫をしているらしい、大学のサヴァティカルでベトナムに滞在中、どうやら相手と一緒の模様。彼女は「ママ、あなたのせいよ!」と心の中で叫んでしまいそう。姉妹はあのような母を持った巡り合わせをいつもこぼしあっていたのだ。

 だが、母もまたその母の娘である。祖母は神戸の芸者置屋の養女、金満家に落籍(ひか)され後妻におさまるが、はるか年下の男と駆け落ち、娘・紀子を産む。祖母は新聞連載(ちなみに本書も読売新聞連載)の『金色夜叉』にのめりこみ、自らを「宮さん」になぞらえていたのだ。「お宮の娘」は大阪の陋屋から東京へ、蜘蛛の糸をたどって這い上がる。夫も、育て上げた娘の本心も慮ることなく力一杯生きる。「日本に新聞小説というものがなければ、母も、私たちも、生を受けることはなかった」と姉妹はしみじみ語り合う。

 美津紀は長期滞在の旅に出る。母との過去を夫との現在を整理するために。行き先は箱根の古い高級ホテル、ひと足で『金色夜叉』の熱海である。携える本は『ボヴァリー夫人』、多くのフランス女性が「私のこと?」と怪しんだ大ベストセラー「恋愛小説を読み過ぎた19世紀フランスの田舎女の話」。話はここから大きくふくらむ。ホテルは人びとの人生が一時交差する場所でもあるから。明日の自立へと必死に取り組む彼女を巻き込む滞在客たち。まるでミス・マープルが居合わせたかのように物語はミステリアスに進む。そして著者は「母の遺産」を中心にお金の話から自由になれない「お宮の孫」の結末をどう用意したのか?

 そう、著者が埋め込んだ登場者、それは「小説」そのもの、読者の人生を変えてしまうほどの爆発力を持つ媒体。小説は近代の幕開けとともに、新聞という媒体に載ることで、新しい読者層を一気に増やした。『金色夜叉』明治30年連載開始、漱石の朝日新聞入社の10年前である。近代文学研究家でもある著者が明治以来培われた小説作法を血肉化して、すきのない文学空間を作り上げた。見事な小説である。

この記事の掲載号

2012年6月号
2012年6月号
人物研究 橋下徹 12人の公開質問状
2012年5月10日 発売 / 定価840円(税込)
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