16歳のマリが挑む現代の「東京裁判」
『東京プリズン』 (赤坂真理 著)

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主人公マリの不安は、戦争を体験した親から生まれた戦争を知らない世代にとっては身に覚えのあることだろう。私もその一人である。家族の物語の空欄には、教科書の行間にあるのと同じ「問うな」という文字が書いてある。自分史の暗がりに光を当てると、大きな問いの存在が露になるのだ。16歳と46歳のマリもそのようにして、語られなかった母を、「天皇」を、自分の中に訪ねる。
1980年代、主人公のマリが大きな挫折を味わった、アメリカの高校でのディベートの授業。それがマリの敗戦体験だ。日本からやってきた16歳の女の子が、英語で「天皇には戦争責任がある」と主張しなくてはならなかった。私は、何も知らない……それはマリと家族の物語であり、マリと同じ頃に生まれた子供たちが相続した問いでもある。ゲームの形をとった裁判で、かつての敵国の少女に天皇を断罪する役割を負わせたのは、誰か。
一人称で問い、一人称で答えることはとても怖い。大きな物語が好まれるのは、主語の中に自分が身を隠すことができるから。マリは「I」という隠れ場所のない主語で、自分の知らないことを答えなければならなかった。その人しか使えない、舟の意味を持つ一人称を用いる人のことを、ずっと考えながら。マリはディベートというゲームに戸惑い、それが対話ではなく戦いの道具であることを知る。自分が負け戦に追い込まれていることも。マリの言う通り、お膳立て自体に価値はない。でも、容れ物のやりとりだけでゲームが成立してしまうのも本当だ。言葉はリレーされて、最初に発語した者の姿は次第に見えなくなっていく。「I」で何を引き受ければいいのか途方に暮れて、マリは言葉を失う。
東京裁判で通訳をしたマリの母親がそうであったように、誰もが他者の通り道でしかない。それでも、一度自分の体を通ったものは他者ではないのだ。すべての母親は誰かの娘で、娘はいつも母親の通り道。母親をどこかへ逃すための舟である。誰が私たちの母か。私たちは何を乗せて流されているのか。マリは懸命に、母・京を沈黙させるものを知ろうとする。
30年を経た自分とともに、もう一度ディベートの場に戻ったマリは言う。「私は以前、通訳なら痛みがないと思っていた。でも、今はちがう。声を取り継ぐのは、本質的な語りであり、通訳の在り方には、意識の本来的姿の秘密が隠されていると思えてならない。」
私たちはいつも誰かの通訳で、望まずに負わされた役割を生きている。すべての物語は自分の記憶の翻訳であり、その形でしか私たちは他者と出会えないのかもしれない。
マリと母との再会は、やがてマリにTENNOUを語る言葉を与えた。
よくできたたとえ話として読み終えてしまうにはあまりにも既視感のある物語。
戦争を体験していないあなたはその人に何を付託して、流そうとしているのか。
あるいはもう、舟は繋いだまま忘れてしまいたいのか。
マリはそう問いながら私の手をつかんで、最後まで離してくれなかった。