書評 文藝春秋 掲載記事

身分を超えて学術を楽しんだ人々

『江戸の天才数学者 世界を驚かせた和算家たち』 (鳴海風 著)

評者高島 俊男 プロフィール

たかしま としお/1937年生まれ。中国文学者。東京大学大学院修了。91年に『水滸伝と日本人』を発表。95年から2006年まで「週刊文春」で人気連載「お言葉ですが……」を執筆。著書に『本が好き、悪口言うのはもっと好き』『漱石の夏やすみ』などがある。

新潮選書 1155円(税込)

 江戸時代と現代とでは、社会における数学の位置がまったくちがう。

 現代の数学は、子どもが学校でいやいややらされるものであり、入試の苦手課目である。それが尾を引いて、おとなになって五十年たっても「数学」と聞いただけで拒絶反応を示す。はい、かく申す小生がそれであります。

 ところがこの本を読むと江戸時代はまるでちがうのですね。知的娯楽、ゲームであって、全国に数学ファンがいっぱいいる。今の碁・将棋にあたると言っていい。もちろんいやいややらされる者は一人もいない。

 この本には著名な数学者の名前がいっぱい出てくる。レベルも高かった。関孝和は「世界に先駆けて行列式やベルヌーイ数を発見」したとある。建部賢弘は「円周率の自乗の公式」をスイスのオイラーより先に発見した、と今の数式になおして示してくれているが、無論わたしにはチンプンカンプンです。

 わたしが名前を知っていたのは甲州犬目村の兵助である。百姓一揆の本によく出てくる。天保の大一揆の首謀者で、死刑になる寸前に逃げ、全国各地を逃亡した。数学を教えて逃亡の費用をかせいでいたとあるので、そんなことができるのかとかねて思っていたが、この本にはそういう「遊歴算家」が多く出てくる。つかまれば死刑、というのは兵助だけだけれども――。

 遊歴算家は「現代風に言えば、移動数学セミナーをおこなう有名大学の教授のようなもの」とある。大したものなのである。

 この本には主として山口和という人のことを書いている。今の新潟県の農村の生れで、江戸へ出て「数学道場」(有名な塾の名)に学び、ここで一二を争う実力を身につけて、遊歴算家になった。奥羽から九州まで全国をまわっている。

 今の宮城県あたりで千葉胤秀という数学者にあった。門弟三千人という実力家である。四日にわたって議論した。結果、山口和のほうが力が上とわかった。千葉胤秀は十も年下の山口和に、弟子にしてほしいと頭を下げた、とある。実力だけの世界なのである。胤秀も立派だ。山口和は、江戸へ行って数学道場で学びなさい、とすすめた。胤秀は言われた通り江戸へ出て学び、十数年後、数学道場版として『算法新書』という「後世に残る名著」を出版している。

 山口和や千葉胤秀は農村出身の人だが、一方有馬頼【彳+童】という数学者は、九州久留米藩の藩主、つまり大名である。子どもの時から数学が好きで、関(せき)流の学者(幕臣)の門人になった。

 このお殿様学者の生地について「久留米城で生まれた」とあるのは不審に感じた。大名は参勤交代するが妻子は幕府の人質だから江戸常住である。「入(いり)鉄砲に出女(でおんな)」で大名の奥方は江戸を出られない。国元の妾が生んだ子のようでもない。江戸で数学を学んだことはたしかである。藩主になってからも多くの数学書を著わした。数学の世界に身分はない。

 ただ、主流の関流は家元制度をとり、高度の数学は秘伝として公開を阻んだ。上にわたしが名をあげたのはみなそれに反対した人たちである。有馬のお殿様も、関流に学んだけれども学術の公開を主張し実践した人であった。

この記事の掲載号

2012年11月号
2012年11月号
総力特集 日中文明の衝突
2012年10月10日 発売 / 定価840円(税込)
関連ワード

鳴海 風高島 俊男

読書の新着記事 一覧を見る RSS

登録はこちら

文藝春秋について 毎月10日発売 定価880円(税込)

※発売日・価格は変更の場合があります。